朝のカフェで、静かに本を開いている人を見かけるたび、胸の奥がほんの少し、ざわついた。
その人の指先が、ゆっくりとページをめくる様子。コーヒーカップを傾けながら、何かに没頭している横顔。そんな光景に、説明のつかない憧れのようなものを感じていました。
でも、いざ自分が本を手に取ると、なぜかうまくいかない。集中できずに同じ行を何度も読み返したり、気がつくとスマートフォンに手が伸びていたり。
「読書が苦手」
そう自分で決めつけながらも、それでも心の奥では「好きになりたい」と思い続けていた理由を、今日は静かに振り返ってみようと思います。
読書に憧れていた
本のある暮らしに静かな魅力を感じていた
書店を歩いているとき、古本屋の匂いを嗅いだとき、友人の部屋で本棚を眺めているとき。そんな瞬間に感じる、ほんのり温かい気持ちがありました。
本のある暮らしには、なんというか、静かな豊かさがあるように思えたのです。
それは派手さや華やかさとは違う、もっと奥深いところにある魅力でした。忙しい日々の中で、ふと本と向き合う時間があることの贅沢さ。一人でいても孤独ではない、そんな空間を作り出してくれる本の存在。
きっと私は、そういう暮らしに憧れていたのだと思います。
読む人の姿に「こうなりたい自分」を重ねていた
電車の中で文庫本を読んでいる人を見ると、その人がとても落ち着いて見えました。スマートフォンの画面を見つめている他の乗客とは、どこか違う空気を纏っているような。
読書をしている人は、自分の時間を大切にできる人のように映りました。流れてくる情報に振り回されるのではなく、自分で選んだ世界に浸ることができる人。
そんな姿に、「こうなりたい自分」を重ねていたのかもしれません。
本を読むことで、もう少し深く物事を考えられるようになりたい。もう少し落ち着いた人になりたい。そんな気持ちが、読書への憧れの根っこにあったような気がします。
でも、読書がうまくできなかった
集中できない、頭に入らない、続かない
いざ本を開いてみると、現実は思うようにいきませんでした。
最初のうちは集中して読んでいても、気がつくと別のことを考えている自分がいる。文字は目で追えているのに、内容が頭に入ってこない。読み返してみても、やっぱり理解できない。
特に、仕事で疲れた夜や、何かに悩んでいるときは、文字を追うことすら億劫に感じることがありました。せっかく本を開いても、数ページで力尽きてしまう。
これは後から知ったことですが、HSPやADHD傾向のある人は、一度に多くの情報を処理することが苦手な場合が多いそうです。読書は「文字認識」「内容理解」「記憶」「想像」など複数のプロセスが同時に必要なため、疲れやすくなるのは自然なことだったのです。
「どうして皆、当たり前のように本を読めるのだろう」
そんなことを考えながら、本を閉じる夜が何度もありました。
後で知ったことですが、これは私だけの悩みではありませんでした。文化庁の2023年度調査によると、月に1冊も本を読まない人は62.6%、読書量が減っていると感じている人は69.1%にも達しているそうです。現代社会では、読書の困難を感じる人の方が実は多数派なのです。
「読書が苦手」という自己認識が重くのしかかる
読書に挫折することが重なると、いつしか「自分は読書が苦手な人間だ」という認識が固まってしまいました。
書店に行っても、「どうせ読めないから」と思ってしまう。友人が読書の話をしていても、「自分には関係のない世界の話」のように聞こえてしまう。
読書が苦手だということが、まるで自分の価値を下げるもののような気がして、それがまた読書を遠ざける原因になっていました。
現代では、SNSの短い文章に慣れた私たちの脳は、長い文章を読み続けることに疲れを感じやすくなっているとも言われています。情報が次々と流れてくる環境で生活していると、一つのことに長時間集中することが、以前より難しくなっているのかもしれません。
読みたい気持ちはあるのに、読めない自分。そのギャップが、だんだん重荷のように感じられるようになっていったのです。
それでも「好きになりたい」と思った理由
読書は「こうありたい自分」の象徴だった
それでも読書を諦めきれなかったのは、読書が単なる趣味以上の意味を持っていたからだと思います。
私にとって読書は、「こうありたい自分」の象徴でした。
慌ただしい毎日の中でも、静かに自分と向き合える人になりたい。表面的な情報に流されるのではなく、もう少し深いところで物事を感じられる人になりたい。
そんな願いが、読書という形に現れていたのかもしれません。
だから、読書が苦手だとしても、その憧れだけは手放したくなかった。読書を諦めることは、「こうありたい自分」を諦めることのような気がしていました。
「できない自分」に優しくなりたかった
もう一つ、大切な理由がありました。
読書を通して、「できない自分」にも優しくなりたかったのです。
読書が苦手だから、集中できないから、そんな理由で自分を責めてしまう。でも本当は、そういう自分も含めて受け入れられるようになりたかった。
読書を好きになることは、自分自身を好きになることと、どこか繋がっているような気がしていました。
読書との向き合い方を変えてみた
読み方に正解を求めないこと
ある時から、読書への向き合い方を少しずつ変えてみることにしました。
まず、「正しい読み方」を求めるのをやめてみました。
最初から最後まで読まなければいけない、という思い込みを手放してみる。気になるページだけ読んでもいいし、同じ箇所を何度読み返してもいい。感想を言葉にできなくてもいい。
読書に「べき論」を持ち込まないこと。それだけで、本を手に取るときの気持ちが随分と軽くなりました。
短くても、少しずつでも、本と触れ続けること
そして、完璧を求めるのではなく、本と触れ続けることを大切にするようになりました。
寝る前の5分だけでも、本を開いてみる。通勤の電車で、一駅分だけでも読んでみる。カフェで待ち時間があるとき、スマートフォンではなく本を手に取ってみる。
短い時間でも、少しのページでも、本と触れ合う瞬間を積み重ねていく。そうしているうちに、読書への抵抗感が少しずつ薄れていったような気がします。
最近では「マインドフルネス読書」という考え方も注目されているそうです。情報を得ることよりも、読書の時間そのものを大切にする。今この瞬間に集中して、ゆっくりと文字を味わう。そんな読み方も、一つの価値ある時間の過ごし方なのだと思います。
読み切れなかった本があっても、「また今度」と思えるようになりました。読書は逃げていかない。いつでも、そこにある。そんな風に考えられるようになったのです。
実際、イギリスのサセックス大学の研究では、たった6分間の読書でストレスが68%も軽減されることが分かっています。また、読書中には脳内でセロトニンやエンドルフィンといった、心を穏やかにする物質が分泌されるそうです。
つまり、長時間読めなくても、短い時間の読書にも確かな価値があるということ。そう知った時、「少しずつでも続けていこう」という気持ちがより強くなりました。
おわりに ― 矛盾した気持ちを抱えたままでも、大丈夫
好きと苦手が同居しても、それは自分らしさ
今でも、読書が得意だと胸を張って言えるわけではありません。
集中できない日もあるし、途中で読むのをやめてしまう本もある。読書家の友人を見て、羨ましく思うこともまだあります。
でも、そんな矛盾した気持ちを抱えたままでも、それはそれで自分らしいのかもしれない、と思えるようになりました。
読書が苦手でも、読書に憧れる気持ちは美しいものです。
完璧に読める日もあれば、全然頭に入らない日もある。それでいい。そんな自分も含めて、読書との関係を育てていけばいい。
読書を好きになることは、自分を好きになることと似ているのかもしれません。
完璧である必要はない。ただ、自分らしいペースで、自分らしい関わり方で、その関係を大切に育てていく。
もしあなたも「読書が苦手だけれど、好きになりたい」と思っているなら、その気持ちだけで十分です。その憧れを大切に、あなたなりの読書との関係を、ゆっくりと築いていってください。
きっと、あなたにとっての心地よい読書の形が見つかります。
参考文献・調査データ
- 文化庁「令和5年度 国語に関する世論調査」(2023年)
- サセックス大学「読書によるストレス軽減効果に関する研究」
- 『鈍感な世界に生きる 敏感な人たち』イルセ・サン著
- 『静かな人の戦略書』ジル・チャン著
- 『マインドフルネスストレス低減法』ジョン・カバットジン著
- ADHD・読書困難に関する発達障害研究データ